令和3年4月後半の法語
桜も過ぎた頃になると、お寺の裏の山の嵩山(だけさん)が、萌え出る新緑に
かわりました。
その緑も濃淡様々で、絵心があればキャンバスに向かって絵筆をはしらせては。
と思うくらいです。
ところが一方では、境内、墓苑周辺は雑草だらけで、草刈りに精を出さねばら
ない、季節になってきました。
今月後半の標語は、
「何でもわかっている」としている
こころの闇(くら)さ』
と、私の姿勢(有り様)を込めて書きました。
自分の眼は外を見るもの。ですから、自分で自分の眼は見えません。
おなじように、自分自身の闇(やみ)に気づかない私。
闇(やみ)を知る光がほしい。
しっかりと光を仰ぎ、闇の中の響く音を聞いていかねばと思う今日この頃です。
闇の字は、門の中に音と書きます。
固まった心の中では、本当の音色は聞こえてきません。
鶯が今年はよく鳴きます。
彼か、彼女を呼んでいるのでしょうか。
私にはホーホケキョ、ホーホケキョ、「法を聞けよ、法を聞けよ」と、呼びかけ
てくれているように思えてなりません。