境内

西宗寺古墳(七世紀のものと推定)

西宗寺古墳
 西宗寺庫裏裏にある古墳は、既に封土を失って石室が露出している。古く「島根県史」にも紹介されていたが、昭和21年(1946)ごろ室内の土が取り出された際に遺物が発見された。石室は出土遺物よりすると最も新しい時期の石棺式石室と考えられる。石室の構造は、室はやや狭く羨道(えんどう)部の加工も粗雑であるが、蓋石は上面も四注式に加工し、玄室の四壁もそれぞれ1枚ずつ削った石で構成し、前壁には方形の入口をうがっている。
 出土品は金環1、銀環1、直刀2、鉄製はみ出し鍔1、須恵器29個であるが、早くから玄室の前側上方隅に破壊口があって室内に出入りできたから、主要な遺物は搬出されていたということも考えられる。
 現在、西宗寺に所有されている古墳からの出土品は須恵器数点である。
須恵器はほとんど散逸したようであるが、そのうちの一部を見ると、山陰地方の古墳時代須恵器を四期に区分する場合の第Ⅳ期に属するものである。おおまかに実年代を仮にあてると、7世紀と思われる品である。

稲塚家墓所

稲塚家墓所
 稲塚和右衛門は、元禄元年(1692)、瓦師平井惣助の兄として生まれ、享保2年(1717)稲塚家の養子となった。
 軽輩の出ではあったが貨殖理財の才に長じ、松江藩御細工所元締、木実方元締を勤めた。延享2年(1747)御細工所元締の時、同奉行野間彦右衛門(忠太郎)及び景山惣七らと、櫨の栽培から生蝋の製造・販売までを一手に指導・監督した。翌年、御細工所から木実方が分離独立すると元締、となり事業の拡大に腕を振るった。
 木実方は藩に莫大な利益をもたらすこととなり、その功により新藩士に列せられ藩士待遇を受けた。
 明和9年(1772)81歳で木実方元締を引退。晩年は扶持米三俵を受ける生活であったが、3年後の安永4年(1775)に没した。享年84歳。寺町の専念寺に葬られた。法号は『釈種雲水義翁清信士』。
 明治年間に稲塚家菩提寺の西宗寺に改葬され、本堂裏に墓所がある。
 著書に『木実方秘伝書』5巻がある。

観音堂

観音堂
 西宗寺境内にある観音堂は「よしだ観音堂」と称し、観世音菩薩を安置している。島根札19番の札所である。かつては寺外にあったが、講中(5軒)の依頼により、昭和初期に境内地に移された。
 御詠歌は「のちのよも ただよしかれとひたすらに ねがうこころのふかきみなれば」とある。
 札所巡りは庶民の仏への信仰心から、無病息災・家内安全・極楽往生を祈ってきたものである。