令和4年6月前半の法語
いよいよ6月に入ります。
山も田んぼも息吹を感じさせてくれる、今日この頃になりました。
先日、何年ぶりかに京都のご本山 西本願寺に、親鸞聖人のご降誕会(誕生日)の法要でお参りしました。
数年前までは月1回はお参りしていたのに、この度は久しぶりの御影堂(ごえいどう)での法要の正信偈
(しょうしんげ)の声に、涙こぼるる思いでした。
どの時代でも、どんな状況でも絶えることなく相続されてきた此の声に、ありがたく思ったことです。
そんな中、学生時代の旧友から、奥さんが往生された辛い便りをいただきました。
入院中の奥さんに、コロナ禍で5分間だけの面会で「お互いにお世話になりました。先にお浄土にて待っています」
との会話を最後に別れだったとのこと。
さぞかし、さぞかし、と考えさせてもらいました。
その後に書かれていた言葉が、今も私の脳裏を離れません。
今月はその言葉にしました。
「生きること 如何にきびしくあろうとも 仏手(みて)のなかなり 南無阿弥陀仏」
しっかりと味わってみたいものです。